<254>「ある人の話」

 こういう人があったという。その人は一家の主。あるとき妻と娘共に誘拐に遭い、例に漏れず電話での脅迫を受けた。悪戯だと思ったか、どうしようもないことだとひとりで決め込んだか、理由は定かでないが、その人は犯人の要求の一切に応じず、警察にも連絡しなかった。妻と娘は、その人に無視され、どうにもならなくなった犯人によって殺された。警察が現場に突入したとき、犯人の命も既になかったという。話によれば、その人は事情を伺われにくるまで、普段とほとんど変わらない生活を送っていたという・・・。

 犯人が死んだことにより(尤も、死ななくても起こり得たことであろうとは思うが)、世間の非難はその人に集中した。どうして何の手も打たなかったのか、中には犯人より悪いとまで言う人もいた。御多分に漏れず、当然私の周囲でも、そういう非難で持ち切りだった。同意を求める声に曖昧な笑みを返しながら、不思議な人だと、思いつつ敬服の情を覚えたのは妙だった。いや、妙であったか・・・?

 この人は泣いていなかったのではないと、何故か思った。愛していなかったのでもない。ただ、大切に思っていることと、誘拐犯が凶行に及ぶこととには何の関係もないと感じた、どうにもならない、いやあるいはどうにかなるかもしれないと、様々の手を尽くすのは、半分いやそれ以上、世間の目を意識してのことであると感じた、そしてこの人はやはりこの状況でも、自分の生活を送ることに努めた、そういうことではないのかと思った。何かしらおかしなところを見つけることの出来ない自分に戸惑った。この人がどこかおかしく映るとして、それは底の底まで見極めが徹底されたことによる自由さの為なのではないか・・・。