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 本当は分かっているのに分からない振りをしているのか、確かに違うと思っているから戦っているのか、分からなくなることがある。小さな頃、まだ批判能力もない頃に叩き込まれた価値観ほどそういうことになる。社会の一員としての地平に立てば、確かにそれは広く行われていて正しいということになるのかもしれないが、そこから離れて、さらの地平に立つと、どうも正しくもなんともないように思えてくる。しかしそこで、

「じゃあ、自分が感じたものに従っていればいいや」

と簡単に出来ないのは、植え込まれた価値観というものが自分の中でしっかりと根を張っていて手強いからだ。その存在を無視することは出来ない。ただ、しっかりと根を張っているからというだけのことで、その価値観を正しいものとしなければならない理由もない。

 思うに、批判とか懐疑とかいうものは、大事なものであれ、それ自体の力は弱いには弱いのだ。故に、継続的な姿勢として保っていなければならない、繰り返し続けていなければならない。そうしないと、植え込まれた価値観に圧倒されてしまうのだ。

 よく好きで読んでいる著者が、幼い頃に叩き込まれた価値観や信仰から離れられたにもかかわらず、それら価値観と最期まで戦っている姿を見て、

「そんなのもう気にしなければいいのに・・・。勿体ないなあ・・・。」

と思うことが何度かあったのだが、それは私の考えが浅いのだということが分かった。よく分かっていない頃に叩き込まれた価値観ほど、自分の中で強く、太くなってしまうものはなかなかないのだ。一方で、前述したように批判も懐疑も、一回々々の力自体は弱い。だから、思索の過程で、あるいは様々な経験を経たことで、それら価値観が違うと思った場合、その後それと戦っていくためには、一生まるまる分くらいの時間がかかるのが当然なのだ(一生では足りないのかもしれない)。