<277>「行動に出るということ」

 例えば、家族のある人と関係を持つことの何が悪いのかは分からないけれども、その行いによって、その家族全体を不幸にする、大方の人はそのことにひどくショックを受けるということを知っているから、わざわざあえてそういう行為には及ばないという人と、家族のある人と関係を持つなんて本当に悪いことだと考えているから、わざわざそういった行為には及ばない人がいたとして、行動が全てだという視点に立つと、二人は同じ動きを繰り広げているということになるのだろうか。

 こういうことを思うとき、行動が全てだという考えは非常に雑な、あるいは乱暴なものだという印象を抱いてしまう。あるいは仮に、行動が全てだという考えが乱暴でも何でもないと考えてみたとして、それでも内心は内心で、ひとつの動きなのではないかという疑問が頭をもたげてくる。結果的に取ったポジションが同じだったからといって(家族のある人とは関係を持たないなどなど)、同じ行動がそこで起きていたとは必ずしも言い切れないのではないか。何を考えているかというのは、行動の外に位置するのではなく、行動と一体なのではないか。身体の動かし方が同じだったからといって、見る人が必ずそこに同じ行動を見るとは限らない。そこに胡散臭い動きをみるかもしれないし、衒いのなさを見るかもしれない。見え方が様々であればそれはもう同じ行動とは言えないのではないか。

 行動と考え、これらを別々にするのには用心がいる。考えてばかりいないで行動しなさい、しかし考えも行動ではないか、両者はくっついているのではないか。じっと立ち止まって考えなさい、しかし、動き回ることは必ずしも考えることと矛盾しないのではないか。