<320>「朝だ、朝だ、」

 蓄積や、量というものを感じられない、あるいは感じにくいからこそ、毎日々々を送っていけるのかもしれない。朝、目が覚め、そして外の光景に出合う私は、ここまでの20数年の蓄積を感じてその場に立っているのではなく(感じてみようと思っても、そのように感じられた試しがない)、ただここにあるひとつの、それ以上ではない身体としてその場に立っている。

 しかし、朝を迎えるのは今日が初めてではない。昨日も一昨日も、朝を迎えたはずだったから、今日の朝を迎えた全身は、目は、ひょっとしたら何らかの蓄積を持って立っていたのかもしれない。ただ、今日の朝が今までの諸々の朝と重なって、またひとつそこに朝の蓄積が為されていくんだ、というような現実感覚でいる訳ではない。では、今日の朝に出合っている私は、一体どのようにして出合っているのか。初めてのもののように? いや、散々繰り返されてきたもののひとつのように? いや・・・。それは近づいているのでもなければ遠ざかっているのでもないだろう。蓄積を感じにくい身体は、同じものにまた出合うという事実をどのように経過しているのだろうか。

「また朝だ・・・」

という呟きを漏らす人にまだ出会ったことがない。朝を迎えればやはり、

「朝だ・・・」

となる。大抵の人はそうだろう。朝が来たことを確認した。この確認という作業にも蓄積感はない。そうだから人によっては何度も何度も繰り返す。朝が来た、しかし、また来たという感じではないその朝を、確認するのだ。