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 何もないところに意味を見る、目的を見出す、その見方、見出し方みたいなものには興味がなく、当然、何もないところに何かの意味を見出すこと自体にも興味はなく、何故、何もないところに何かを見出さないではいられないのか、というところに非常な関心がある。何もないなら何もないでいいのではないか。それでも不安からか、誘惑からか、何もないではいられなくなって、目的を作り出してみたりする。それでも収まらずに、目的や意味を見出せないものを、執拗に下げてみたりもする。人間であるという証の拠り所として意味や目的を持ち出して、そうでない人を人間ではないと言ってみたりする。人間を限定してみたりする。そうしないでいられなくなったりするのは何故だろうか、というところに関心の中心がある。

 また、目的をそこに見ていただけなのに、いつの間にか目的的考えが中心を占めてしまうのは何故なのか、というところにも関心がある。目的というのは、何もないところに見ようと思えば見ることも出来る、という程度のものであって、見ることが何かの助けになるのならそれはそれでいいし、別に見ないなら見ないでも構わないという類のものでしかない。目的を持とうが持つまいが、あくまでも私は存在し続けるし、生きていくという事実は変わらない。目的を持たなくなったことが直接の原因となって、その後人間でなくなってしまったり、死んでしまって存在しなくなったりするようなことにはならない。(人間であるという証の拠り所に意味や目的を求める人は、そういった目的を持たない状態にある人のことを、「生きているのに死んでいる」「本当の人間ではない」などと言って、人間を限定しにかかることがあるが、こういう場面を見かけたことがある人も多いだろう)。

 こういうことを考えるとき、よく心に浮かぶのが、

「何のために生きているのだろう?」

というフレーズで、これは、そこに見ていただけのはずの目的が、いつの間にか中心にまで来ていることを表す興味深い言葉だと思うのだが、私は、

「何のために生きているのだろう?」

という問いかけ方ではなくて、

「何のために生きているのだろう、という問い方をしてしまうのは何故だろう?」

という問いかけ方をしてみる。

 目的や意味は見出すだけのものであって、根本条件や中心ではないとするのは、それが死という事実と合致しないからだ(死と合致しないということは、当然生とも合致しないということになってくる訳だが、ここは単純に死としておく)。これまでやってきたこと、これからやっていくことに何かの意味があるんだ、という考えのちょうど反対に、死という完全消滅の事実が存在する(だから、意味や目的を根本に据えるためには、人は復活していなければならないし、死なない存在になっていなければならないし、別世界を持っていなければならないのだ)。要するに人間は生き物で、生きて死ぬということが根本であり全てである。私がやってきたこともきっと何かに繋がっていくはずだ、むろんそうだろうが、繋がっていった先の先に全体の死、絶滅が待っている以上、意味や目的が根本であるなどとはとても言えない。それはやはりどう譲歩しても、見出すことのできる慰み程度のものである(もちろん慰みは必要とされていいし、あって悪いものでもない)。故に、

「何のために生きているのだろう?」

という問いは、問いかけの時点で既に失敗していると言える。生きていること(即ち死ぬこと)は動かしようのない根本であり、何のためにというのはこちらが勝手に見出すだけのもの、つまりは枝葉であるからだ。同じ次元で問うことが出来ないものを組み合わせてしまっている。まだ、

「生きているのだろう?」

とだけ問う方がマシである。