<396>「生きて、死ぬこと」

 『独りで生きていく可能性の方に賭けろ、全生命を賭けろ、と言われたからそのようにしたら上手く行かなかった。騙された』

と言っている人を見かけると、ああ、可能性に賭けろと言った人たちの真意は、この人には何にも伝わらなかったのだな、と思ってしまう。

 自分ひとりで生きていく、そのままで飛び込んでいくことを説く人は、安心安全の、整備されたルートとはまた別の成功があると言っているのではなく、そこに危険はないしまた、悲惨な状況に陥ることもない、などと言っている訳でもないのだ(もしかしたら、そういう嘘を含んで、賭けていけというような物言いをするタイプの人に偶然ぶつかってしまったのかもしれないが)。そうではなくて、自分が生きているということの尊厳を、その領域を、絶対に他人に譲ってはならない、自分の生に対して自分自身が全責任を負うというのはそういうことで、そこにこそ自由があり、いや、そこだけにしか自由はなく、それを他人に渡してしまうのは、ひとりの人間としての尊厳を放棄してしまうことになる、そんなことは耐えられない、と言っているのだ。

 だから(少なくも私が出会った人たちは)、悲惨な状況になど陥る心配はないし、絶対に成功するから安心して飛び込んできなさい、などとは一言も言っていないのだ。そうではなくて、結果悲惨になるとかならないとかいう以前に、自分の尊厳を、その領域を誰かに渡してしまうことが、他の何よりも一番耐えられないことなんじゃないのか、と言っているのだ。

 例えば、自分の人生において自分が負うべき全決断を(つまりは自由を)、少しずつ誰かに渡す、何故ならその方が安全だから、というのは分からないでもないが(いや、やっぱり分からないか)、仮にそれでうまく行ったとしても、どこかで、

「何か違う・・・。これは自分が選んだことじゃない・・・」

という意識が頭の隅を占領し続けるし、それでもし上手く行かなかった場合なんかは最悪で、

「こんなルートを俺に対して用意しやがって」

と、自分の代わりに決断した他人を、ひどく恨むようなことになる。それじゃあ、どちらに転んでもやり切れないし、どこまで行っても、一向にスッキリとしないんじゃないか、しかし、自分で自分の筋を通せば、諸々の結果や状況などをちゃんと自分の身ひとつに受け止めることが出来る、それはスッキリとしたことなのではないかそして何より、それが一番大切なことなんじゃないのか。他人に、自分のその大事な決断を譲っていては、ちゃんと勝つことはおろか、ちゃんと負けることさえ出来ないのだ。しっかりと散り、しっかりとおさらばすることが出来ないのはなんとスッキリしないことだろうか。騙されたとこぼす人はだから、自分の生の領域を絶対に譲らない、そしてそこから来る結果を全て自分に引き入れることを決めたのではなく、

「自分の生の領域を、絶対に他人に譲ってはならないんだよ」

という他人の言説をそのまま取り入れただけなのだ。だから、その歩みによって何がしかの悲惨さに見舞われると、

「あなたがこっちに来たらいいと言ったのじゃないか」

と怒るようなことになる。それは全然違うのだ。自分の領域を結局他人に委ねてしまっているから怒ることになる。

 また、自分ひとりで飛び込んでいくと、そこにはまた別の、安心安全の世界とは違った成功のルートが用意されていますよ、という嘘をまことしやかに囁くのも相当タチが悪いが、反対に、自分ひとりで飛び込んでいった結果の悲惨さをコレクションして並べ立て、

「ですから、自分の尊厳を多少売り渡してでもこちらの安全ルートに従いましょうね」

と囁くのもまた、同じようにタチが悪い。目の前の悲惨さを迂回して、安心安全なルートに進めとお節介を焼くことのタチの悪さは(自分でそう進むと決めたのならまだしも)、そっちを選べば、まるで悲惨さが待ち受けていないかのような嘘をつくところにある。この人は、ひとりで飛び込んで行った結果、こんなにボロボロになってしまって、最期は悲惨でしたねえ、さあっ、私たちはそんなことがないように、こちらを通って進みましょう、といって皆を誘導する(因みに、薬の広告などにも、こうやって人の不安を煽るようなものがあるが、私はこういうものが本当に嫌いだ)。しかし、誰もが、いよいよ死ぬというときになってハッキリと気がつく。迂回していたら悲惨さを逃れられるかのような教えを受けて、それを信じてきたが、それは間違いだったのだと。ボロボロになって死ぬのは、どの道を択ぶとかには関係がない、生命を持つものの宿命だったのだと。つまり、いずれの道にしろ、人の決断の領域にズカズカと踏み込んでいって、こちらに進めば悲惨さは待ち受けていないかのようなことを言って、その人の行動の幅を限定しようとするのは愚かしいことであり、端的に言って悪なのだ。どの道に進もうが、悲惨さは終局でしっかりと人間を待ち構えていて、かつ逃さない。いかに安らかな状況、外的にはそう見える状況にあったにせよ、その人の全人生が、その死とともに閉じるのだから、死はどこまで行っても悲惨なものなのだしまた、劇的なものでもあるのだろう(どんなに静かに見える死でもそうだ)。その悲惨さを、劇的さを、進みようによっては将来一度も拝まなくていいかのように言って、人の行動を操るとは一体どういう了見をしているのだろうか。また、堂々と、しかし残酷にも死んでいった人たちを前にして、

「この人は、俺みたいに上手くやらないから早く死んだ」

といって、死んだ人と比べて自分の生きた年数、これから生きるであろう年数を勘定することのケチさはどうだ。死ぬということの物凄さを前にして、そんな、人より数十年長く生きたとか短く生きたとかいうことが、一体何の問題になるのだろうか。また、

「この人が生きていたということに、一体どれほどの意味があったんでしょうねえ」

という判断を差し挟むケチさはどうだ。この人は、ともかく生き、そして死んだ。それは、人間全部の知識や知性を合わせたものなどを軽々と超えたところにある、とんでもない現象なのではないか。その前に立って、その死者を前にして立って、呆然とする以外に、何か他の取るべき態度があるのだろうか。