<400>「年齢が貯まる」

 渡すべき人がいるのならともかく、後に残すことになる子供も誰もいないのに、沢山のお金を貯め込んだままで死んでしまう、これは、おかしさの、嘲笑の対象とされたり、批難の対象とされたりもするが、事はそんなに簡単ではない。笑われたり怒られたりすれば、その人が、恥ずかしさから申し訳なさから、すぐにその行為を改められるような、そんな易しい問題ではないという気がしている。

 これはまさに、悲惨さ、端的に言えば、確実に死ぬという事実と、人間の側がまだ上手く折り合えていないことを示すひとつの事例なのではないか。生きていくのにお金がかかるのは(今のところは)、どうしようもないことであり、晩年に至ったときのお金のなさ、また、晩年に至らないまでも、いくらかのお金が用意出来なかったばっかりに、あえなく死んでしまうようなことも当然ある、というか、そういった事例は数え切れないほどの多さになるのだろうが、一方で、金があれば死なない訳ではないのだ。

 おそらく、使い切れないほど、いや、何に使うのか分からないほどにお金を貯め込んでしまうのは、その悲惨さを、どうにもならない事実を忘れたからではないのだろうし、その事実から目を背けたくて狂ったようになってしまったからでもないのだろう。まるでかわせないことを知りながら、しかし自分でも何故かは分からずに淡々と積み上げてしまう。そこに錯乱も、醒めた目線もないのではないか。では何がある? 何がそうさせる? それが分かっていたら、訳も分からないほどに貯め込んで、そしてほとんどそのまま使わず終いになる、なんてことは起こらない、あるいは、起こったとしてもその頻度は、ぐっと低くなるのだろう。果たして、お金は悲惨さの代わりをしているのだろうか。表面的にはそうだろう。便利でもある。ただし、根本から悲惨さを癒すことは、まずあり得ないのではないか。お金は、寿命の代わりをするのだろうか。代わりにはなり得ないことを知って、それでもなお自分の年齢を支えてくれるものでもあるような、考えというよりほとんど行動を生んでいるのだろうか。