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 「俺が一番上手い」

と言った。それは、美学であるというよりほかなくて、というのも、それはどこまでも無用な追いこまれであるからだ。そんなことを言わずに謙虚に、また、謙虚とまではいかなくともただ普通にしていれば、余計なプレッシャーを、批難を、嘲笑を浴びなくて済む。それに、無用な追いこまれであるという言葉の意味には、それをしない他の人たちが決して楽をしている訳ではないということも含まれている。俺が一番なんだと言って徒に追いこまれなきゃいけない理由もないし、それをしないからといって、その人がズルをしていることにはならない。

 俺が一番上手いと言う。無用な追いこまれだ(無用であるから美学だ)。何故なら、

「俺が一番上手くはあり得ない」

からだ。客観的に見て、他の人より劣るからということではなく、単純に技術が足りないからということでもなく、確かに上手いけれど、一番は他にいるからということでもない。一番というものを数値などで客観的に決められない世界において、観賞者は、皆めいめいに自分の心の中だけの一番を持つようになる。つまり、どんなにか素晴らしいと認められている人、そんなの決められないけど、決めるとしたらあなたが一番じゃないか、と言われている人でも、ひとたび、

「俺が一番上手い」

と発言すれば、相当数の反感を集めることになる。ということは、無用に追い込まれること必至な言葉即ち俺が一番上手いなのである。

 それでも、言う。それは無用かもしれないが、いや、無用だからこそ、生きるひとつの態度になる。そんなことで無駄に追いこまれる必要はないのに何故、と問うてみたところで仕方がない。必要などというところで動いていないからだ。そして、どうしようもなく、私もそうでありたいと思っている。