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 「自分が正しいと思っている人」

を、批判しようとするのは別にいいのだが、自分が正しいとは思っていないつもりの人が、どれだけその正しいという考えから離れているかというと、実はそんなに離れていないのではないかという気がしてくる。語るそばから、記述するそばから自身を疑ってかかるのは難しいし、語ること記述することそれ自体が、既に多分に正しいという観念を含んでいて、つまり語ること記述すること自体が、

「俺は正しいんだぞ!」

という表現になってしまっていて、それを避けようとするともはや語ること記述すること自体を否定するしかなくなるのではないか。語り記述する人間は、

「自分が正しいと思っている」

ところから、抜けられないのではないか。自分が正しいと思っている人を批難するときの、その批難者の「正しさ加減」は、どうなるのだろう。

 どうしてこんなにも、語ること記述することに、正しさというものは密接な関係を持っているのだろう。それは、存在するということの絶対感、確かさに由来するのではないか。当然のことだが、自分が存在していない状態(つまり死んだ状態)というのを、主観的には認識出来ないので、常に、存在しているという絶対感と共にあり続けることになる。その確かさが全ての基盤になっているので、自己否定の言辞も、反省の素振りも何もかも、正しさというものと親密になってしまうのではないか(俺は正しいよ、だって現にこうやって存在しているではないか、というように・・・)。そして前述したように、それを避ける方法というのはなくて、自分は、

「自分を正しいと思っている」

領域から、出ることがないのかもしれないと考えている。