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 苦しみ、日常些細事、不安、歓喜、通常の運動がいっしょくたになって、そのときどきで、色や形を変え続けているから、まともに目にすることをほぼ衝撃的に欲し、またあるときは直視を避けた。素直に覗かれるとき、そうだなあ、覗くなどという意識が排されてある或るとき、それはゆったりとした時間を内に含んだ。目の前のものがどこにも流れていくはずのない信頼物である。それが無ければとてもまともではいられなかっただろうが、これがどうもあまりに時の経過物であり過ぎて、いけない、いつまでも見ていられる、そうそう変わることはないだろう、なんてなんて、もはや判断とも呼べないのだよ・・・。

 

 

 おそらく、ただ説明が億劫になった訳ではなく、それだけでは何か、いや何も伝わらないことの確認を強くしているのだと思うが、さてどうか。いくら言葉を尽くしても足りなかったり、あるいは言葉があり過ぎて混乱しているということがあったり、それが、どちらも矛盾せずに成立するというところに、説明の限界というのが現れているような気がしてならない。

 最晩年の老人が、この期に及んで何にも伝えることがないと漏らしたとして、それはある種の満足感や、不満足感、不足感とは別のところに位置する問題なのではないか。つまり、説明が用意されなければならないということへの、それが通念になっていることへの、決定的な違和感が、この人を停滞させるのではなく逆に前進させていて、そのときは必ず、

「何処へ行くの?」

と訊かれるに決まっているのだが、また答えようがないだろう。どこか、誰も届かないところに行こうとしている訳ではないし、事実誰も届かないところに来てしまった結果、説明が不可能になった訳ではないのだから(最初から説明は不可能だし、また、どこに着いてもいない)。どこか別のところへなど行っていない、だからこうやって、ちゃんとそこに座るなりしているではないか。温度があるではないか。むしろ、これでもかというほどの情報を含んで、その身振りは、表情は濃さを増しているはずであり、それを受け取るからこそ、何故だか分からないがこちらはたじろぐのではないか。

 このことに是非説明が足されなければいけないから説明するのではなくて、それをしないと不審がられるから(相手を不安にさせてしまうから)説明するのである。その社会的振舞いを、その有用性を、決して軽視するようなことはしないが、それは、また、何というか、億劫の中でも一番億劫なことではないか。

「入ーれーて」

「いいよ!」

これで終わりであったはずだが、

「私は、何々と申しまして・・・○○はああでこうで・・・」

話題を次々に展開しあれやこれやと説明を足し、一体何を得ようとしてそうするのか。不安の解消のために、そうせざるを得ないのかもしれないが、それは同時に不安を強めもした。

 深い付き合いを結んでいる相手がいくたりかいたとして、その人たちが一体何であるのかということが果たしてどの程度まで分かっているのか、何が分かれば安心か。また、何も分からなくてもそれは安心なのだろうか。ちゃんと安心になるのだろうか。