<432>「要素がこぼれた真理」

 要素をこぼすという話、何回も何回も書いてきたが、それは即ち何度も気になっているからということで、例えば、私とあなたがいる、それを「人」という共通項でとりあえずは括れる、括った中に入る要素だけで、とりあえず「人」についての結論はいくつか出せる、それは、私とあなた以外の人にもとりあえず当てはめられる。こういった順序で、真理、あるいは真理に近いもの、真理だろうと思われるものが導き出される訳だが、そこで出てきた真理は、私とあなたとを同じものとして考えた程度の真理でしかないのではないか、という疑問が、頭を離れないのだ。私とあなたとは同じ「人」だが、厳密に見ていけば、違いすぎるほどに違う、何もかもではないかもしれないが、いくらも違ってしまっているのに、それを、無理やり同じ枠に入れているのではないか。その操作によって仮に、何がしかの真理を導き出しえたとしても、それは現実という全体の中の、ごく狭い範囲しかカバー出来ていない真理なのではないだろうか(要素を沢山こぼしている・・・)。

 であるから、言葉の積み重ねによって真理に辿り着こうとする、厳密に抽象化する作業を繰り返していくことによって、いわゆる「神の視点」と呼べるようなものを獲得するところにまで至ろうとする方法があると思うが、その方法が、仮にどこかで終点を迎えたとして、そこには、ほぼ完璧に近い、厳密すぎるくらいに厳密な真理を抱えた人間が、それにもかかわらずその真理の、現実という全体に比した場合のその覆う範囲の狭さについて、愕然としている、という光景があるのではないか。

「私が抱えている真理はほぼ完璧なものであるはずなのに、現実という全体が、なんとこの真理から大きく、方々へはみ出していることだろうか(重なってはいるのだが・・・要素を大量にこぼしてきたからなのか・・・)」

 すると、この方向で何かしらを進めるのは間違いではないのかもしれないが、そこで仮に終点と呼べるところへ辿り着けたとしても、現実を理解するための作業というのはその後も決して終わらないのだろうという気がしている。真理を厳密に定めようとすればするほど、そのカバーできる範囲は狭くなっていくのではないだろうか。