<441>「寂しくいてみる」

 悲惨さに手を差し伸べる訳でもなく、かといって目を逸らす訳でもない。それで、自分の為すべき事を済ませたら、速やかにその場を立ち去ってしまう。何かが足りないような気がする、何かもうひとつあるんじゃないかと言いたくなるのだが、その一連を繰り返し眺めていくうち、ここには完全がある、いや、完全しかないことを悟っていく・・・。

 各人は、自分の為せる事を為していくだけで、それは当たり前のことなのだが、一方で自分の為せないような事、関心の外にあるような事でも、為す用意があるようなフリをしていなければならないことがある。別に、本当はしなくてもよいのだが、それをすると人間でないような批難を浴びることになるので、ほとんど誰もそんなことはしない。そして、それによって余計な悲惨さを徒に増やしていくことになるのだ。

 自分のすべき事をしている、しかし、それだけではとても人間とは言えない・・・なるほどしかし皆が完全であれば、あるいは少しでも完全に近づこうとすれば、避けられぬ悲惨さは別として、徒な悲惨さの数々は、随分と未然に防ぐことが出来たのでは、という話は注目されにくい。注目を妨げるのは寂しさだ。寂しさと徒な悲惨さとが並んだときに、徒な悲惨さが選ばれる訳ではない、が、寂しさを選べないばっかりに、結果的に徒な悲惨さが増えることになる。しかし、よく考えてもらいたい。寂しさは、そこで選択しさえしなければ今後一生お目にかからずに済むような類のものなのだろうか。そういった代物でないと分かっているならば、積極的にこちらから寂しさを選択し、余計な悲惨さを減らすべく動いた方がいいのではないだろうか。速やかに立ち去るためにはいくらかの練習が必要だ。