<447>「執拗に揺れる」

 解放されて、身体が軽く、喜んでいるときにも、諸々が塞がってどうしようもなくなっているときにも、さてこの解放された気分というものは一体何なのだろうかという疑問を持ったままでいるのだが、この離れた考えをどう心得るだろう。解放されているときに、解放されていることを、無感情に確認する視線、どこかで見たことのある目つき、まるでそれがどこか遠いところの出来事であると言わんばかりだ。

 振幅、揺れ、ただユーラユーラとしているものがあり、それは望みではないのだろうが、そんなことは関係がない。

「望みは何ですか?」

と、人は訊き過ぎる考え過ぎる。それだけ止まって拵えるのだから、望みなどは実はどうでもいいことだということを知ればいいのだ。私は執拗だ。私は執拗に揺れている。何かの欠落だと言っている声があるが、しかしそれらを埋めたものが確かな振動物になる訳でもない。何かが欠け落ちたという射程自体が間違っていたのではないだろうか?

「何をお求めですか?」

お求めではないのだがそう言われるとはて私は何をお求めなのだろうということを考えている。それがわざわざであるということを逐一確認した方がよろしいのではないか。つまりまた、何をお求めなのかということは、決して大事な問題ではないということなのだ。それなのに、買う人間が何を求めているのかを真剣に考えろ、また、購買者は何かを売っている人間に騙されないように、自分が真に求めているものは何なのかを知れ、とあちこちでやかましく言っている。馬鹿言っちゃいけない、そんなものは真剣に探そうが探さまいが、どうにも見つからない、あるいは無理くりに、

「そういえば、こうなのかもしれない・・・」

というのを拵え上げてみるだけだ。私は揺れているだけだ。揺すぶっているだけだ。ユラユラユラすることに何かの意味が? そんなことはどうでもいい、お前は生きものだろう?