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 昨日、共通言語について書いたが、世界には大体約7000もの言語があるらしい。それで、この数は減る一方であるそうだが、それではダメで、何がダメかというと、7000だったものが8000とか9000とかに増えていかずに、維持、あるいはジリジリと減る一方だという事実は、まさに世界が同質化の方向へ向かっていることを雄弁に物語っているからなのだ。パターンが少なくなること即ち貧弱化である。その他のことで、例えば、色々な人々がひとつところに集まって暮らしているこれが多様性だと頑張ったってダメで、言語が減っているんじゃ、全然多様性なんてものはダメになっていると言わざるを得ない。

 もし言語というものを新たに生み出す人々、動き、地域などが今後出てこず、衛星や交通網などによって様々な場を行き来しまた同じ場所にいながらにして全体を把握できるようになったことで、言語創造運動はガチガチに固まり、共通言語の支配ばかりが進み続けることになるのなら、大げさかもしれないが、人間の多様性というものは本当に終わりというか、終わっていく一方ということになる(それは結果的に共通言語を主に使用している国の人々にとってもマイナスになる。明らかに全体が貧弱化するからだ)。これは相当マズい。今ある言語を、何とか維持しよう繋いでいこうと奮闘している方はおそらく沢山いらっしゃって、それは素晴らしいことに変わりはない、その素晴らしさに揺るぎはないのだが、しかし、何故7000であるものが8000とか9000に増えないんだ、こんなに人がいるのに、それが多様性ということじゃないか、という方面の疑問も同時に発せられなければならない。それなのに、英語を話しましょうと無自覚も無自覚に推し進め続ける人が居、普段使ってもいないのに(今後も使わなさそうに見えるのに)、口癖のように、

「これからは英語が喋れないとダメだよね」

などと何の疑問も思わずに言っている人がいる。それは深刻な同質化を招くということが、もっと言われなければならない。

 例えば、

「移民なんてけしからん、排除だ排除!」

という話がむちゃくちゃであることは確かだが、

「同じ人間なのにかわいそうでしょ、どんどん迎え入れましょう」

という話もまた同じぐらいにむちゃくちゃであるということを言わなければならない。そんな簡単な話ではないのだ。

 何故簡単ではないかというと、それは言語の問題がかかわるからで、移民の人々が入ってくる、そこが日本だと仮定する。そして、何も考えずにただ迎え入れた場合に、そこでやり取りされる言葉はおそらく共通言語の類になるだろうということで(つまり共通言語を駆使できる人が間に入るということである)、初めのうちは、それでも入ってくる人の数がまだまだ少ないからいいかもしれないが、次第に数も増えていって共通言語が必要になる場面も増えていくと。その中で、結婚などの問題も絡まって来てすると子どもは日本語のほかに共通言語をも積極的に使用していくこととなると、あっという間ではないかもしれないが、知らぬ間に、日本語が共通言語の勢いにのまれてしまう可能性が高くなるのだ。日本語を失うということは、日本という場所を失うということである。それは感傷の面からも、多様性の面からも非常にマズい。であるから、受け容れるにしても、

「移民の人々など、困っている人、助けを必要としている人は当然助けましょう。ただし、プライベートな空間のことはさておき、日本での共通言語は日本語でお願いします(もちろんそれに必要な教育はします)」

とハッキリ意見表明してから受け容れなければならないのではないか。当然助けはするが、母国語を失うような行為に身を委ねることは出来ない、と言わなければならないのではないか。そうでないと、昨日も少し書いたが、共通言語にはまだるっこしさがないから、気軽に使っていたつもりだが、それら共通言語に変更されるまでがあっという間だった、ということになりかねないのだ。

 大げさな誇張でそう言われていただけのことかもしれないが、それに今はそうでないのかもしれないが、フランスの人々は、旅行者が話しかけてきても、フランス語でしか応答しない、というような噂があった記憶がある。これは一見すると、頑固で、プライドが高いだけのように見えるかもしれないが、言語は即ち領界なのであり、そこに入ってくる人を拒みはしないが、入るからにはここの言葉を使ってください、という姿勢は、どの国の人も持っていなければならない類のものなのではないか。言語を失うと場所も国も失うという危機感を持っていなければならないのではないか。