<450>「言葉と身体」

 別に、皆が共通言語で通していたっていいじゃないか、それで何の問題もないじゃないか、という話には当然、同質化・多様性からの批判を向けるのだろうと、おそらく既に予想されているだろうから、それはいいとして、もうひとつ、言語は身体であるという方向からものを言わなければならない。即ち、言語が減るということは身体が減るということであり、言語を奪うことは身体を奪うことなのである。ただの観念的比喩ではない。言語はあなたの脳や手や、いや全身と密接不可分なのである。また、発話する様子を見れば分かるが、息は言語であり、言語は息なのだ。血が流れないので分かりにくいのだが、言語を奪うというのは、肉を削ぐのと同じぐらいに残酷な行為なのだ。

 ということは、母国語は別にいい、共通言語で充分じゃないか、と言うのは、自らの身体を捨て去るような振舞いを容認している物言いだということになる。身体は大事に扱わなければならない。守るべきときは守らなければならない。むろん、守ってばかりいたのでは弱くなる一方なので、鍛えることも同時にしていかなければならない。