<520>「驚く習慣」

 あたふたしていくだろうことを考え、やはりあたふたし、それを確認するとはどういうことなのだろうか。つまり、あたふたしているときには、そこに確認するという視線が、作業が入ってこないのではないか、ということだ。

 動じないでいることなど無理だと悟り、やはりあたふたしていくのだろうと考えるところまでは良い。しかし、その後実際にあたふたし、それを確認している状態というのはどういう状態なのだろうか。それは、あたふたしていないのではないだろうか。それとも、あたふたしていることには間違いがなくて、一方で同時に、無感動に確認することも出来るということなのだろうか。

 同じ話あるいは似ている話なのかどうかは分からないが、驚くという所作があまりにも習慣的、反射的に身につき過ぎていて、動きとしては確かに驚いているのだが、感情的には大した驚きもない、ということがある。これは、驚いているのだろうか。感情的にそうでもないのならやはり驚いていないのじゃないか、と考える。しかし、では何のために驚く動作から始めてみるのだろう・・・ついうっかりなのだろうか?

 思ってもいない振舞いを、常に繰り出すように出来あがっているのではないだろうか。それは必要のためからか、習慣のためからかも分からないおそらくその双方であったりはたまたどちらでもなかったりするのだろうが、一旦そういうものを丁寧に取り除く、もしそういうことが可能になるのだとしたならば、ほとんど動きは無くなって、直立不動でいるようなことになるのだろうか。