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 全部が全部おんなじ問いを必要としている、のではなく、結局ひとつの問いに全てが集まってくるのでもなく、問うということそれ自体が、そのひとつ事を、ひとつ事だけを指しているのだということ。つまり、

「一体、これは・・・?」

という言葉が全てで、その後に続くあれやこれやは一切関係がない、枝葉でもないということ。

 バラバラになるもの、最初からバラバラでしかあり得なかったもの、その増加に、待ったをかける。

「ひとつの体でしょう」

と。

「ひとつの体ではなかったりするのだろうか」

と。

 ひとつの体であるという前提からスタートし、それを当然だと思っている一方、根本から湧き上がり続ける疑念は拭えない。

「一体・・・一体・・・」

と、辺りを亡霊のようになってうろついている。生の営みを眺める意識は、ひとつの体であることに対する絶えざる疑いを持っている。意識は、どこからか、一体でないという情報を受け取り続けているのだろうか。しかし、動くということはひとつであるということの証明なのではないか。

 理解を混乱させる原因となっているもの、それはスイッチのこまめな切り替え作業である。ならば、消えっぱなしあるいは点けっぱなしのどちらかであることで、何かを掴めるのだろうか。消えっぱなしなら確かに一体となる。しかし掴んでいるかどうかを知ることがない。点けっぱなしとなると、掴むには掴むがそういうときは大抵ひどく歪んだものを掴まされることになっている。

「一体々々なんて繰り返して、そんなのおかしいじゃないか。あなたはそこでそうやって動いているではないか?」

そうなのであろう。しかし、一体というものがどういうものなのか、感覚的に分からないのである。だから、お手上げとなって眠る。知らないところで調和が完璧に成されている。であるから、寝起きの顔は、誰を取り上げようともとぼけているのだ・・・。