<539>「中間地」

 よく嘆きたがるものはおそらく、どこかの景色になっている。そこから時間の経過と言えども知らず、流れ流れた先の場所であるのかも知らず、細かい確認に分かれているところこそ、現在なのである。一切の物思い、気分に別れを告げ(あるいは告げられ)、しかしそれにより、やたらとゆっくりした驚き、惑いというものが密接になって立っている。

「お前は、いつまで疑問であるつもりなのだろうか?」

「とっくに判断したものたちに比べ、まるでお話にならないな」

そうなのだ、お話にならなくするためでもあるのだこれはおそらく。もちろん、単純に、疑問であるところからポコッと外れることが出来ないというところもあるのだろうただ、

「こんなもんお話にならなくしてやろう」

という意地悪な気持ちもある。それは裏側をしっかりと支えているはずだ。

 そんなものに支えられて立っているだろうものが、もう少し明るくしてくれだとか暗くしてくれだとかの注文をつけるはずはないし、頭にあるのは何かを超えてしまうということ、それも、物や人の上に立つのではなく、運動として、不可解に不可解を重ねてひとつの抗い難い景色になるようなこと。深まり過ぎた不安が逆に一切の表情でなくなってしまっているようなことを。

「不遜な望みを」

しかしそうだ、見ることで糸は揺れている。それが疑いの、惑いの表現方法だと言わんばかりに・・・。