<590>「水が流れるように」

 なるほど得意な速さでそここの頑丈さを欺こうとするその意思が、意思と再び約束されたひとときの空白が現れてくる。何度ぼんやり思って何度ぼんやり思ったところでここから何が分かってくるのだろうと思ったことだろうか。ただそのままであるということに意識的であること、そのままは嫌で違うものをつけたりまた意図的に見なくなったりすること、そのどちらもが結局は同じ絵を描くのに協力している。

 いい加減さは一体誰の何を助けるのだろう。大人しさもまた時折強烈に翻るための準備をしている。奇妙な名をそこへつけたら私はひとつ枠組みになってみるのです。むろんそんなことを承知していたかしていないか、知ったところでいまひとつどういったリアクションも取れず、困らされるだけだ。

 ひととおりの話を聞いてなお何も分からないのだから試みに別の動きを用意してみる。

「あなたがたがおっしゃっていたのはこのことですか!」

という声を傍らで聞き、どうやらものを考えることは瞬間的な速さのち我慢だぞ、なぞということをぽつぽつ浮かび上がらせてみる。

 興味でも無関心でもないあの時間を確かめて、ああとホッとするのか、いや、

「ああ、確かにあるようです」

という考えに沈んだりまた混ざったりしていくだけの、ただの表情というものになっているのだろう名づけるとしたらそう名づけるしかない。名づけられたところで、何が安定するでもなく、不確かな場面というものが映像の大半を占めているのだろうなとなんとなく思ってみるばかりである。