<661>「綻びもなにも畳み込み」

 パタリ、パタ、パタパタ・・・。ああ、そうか、私がただの人だとすると、感じられることはせいぜいこの程度で、助かった。また一段と、何が何やら、増えていたようで、いやそう見えていて、実は若返りの声を、順番に聞いているだけだったりする。あたらしいものには何か初めて見るものがなければならない。つまり、どういうことだろうか。あたらしいことは繰り返しである。呼吸の変化である。直覚するリズムとわずかなズレである。またたく間に消えていくひそかな喜びである。

 なずむべく並べて、わなないたくらいは、余る、あ、また、あまると、ほとんど、停滞どころではなく、どこも、学ぶ目、学ぶ目、見たらし、意識していやらしい。ひとつのお定まり、快感、あら、ら、あらあら快感。毎年いや毎日決められた量があって、全部をうる、とすればうれしい訳でもなく、この喉にもないこと、垂れ流しで、むしろいいこと、交わすたび増えて、くれるこの頃上等と、本当の綻び頭を撫でてくれたんだ。

 ふてねてえとおや、こいつはきっかけだが、動き、ま、た、が、なければ、み、え、みえないだけの、ことこと、ひと、つの集中が、ある(確かに)。これで、充分だと、お互いの、身体という身体、触れてまわる。

「感じられることはこれだけ」

しか・・・も、ほとんど、そこここに踏みよるまで、ああ、せ、汗、まさか、あながち・・・と言う訳にもいかず、減った分だけ、ましかし少しズレて、増えたんです。元気だけは一杯にして、あとの流れ、分からいでも、分かったとしても、笑み、大袈裟であるより、笑み、そうだろう。