<922>

 きれい。あなたの唱える。ひとは言葉に口をつける。おそらくはわずらわしさのなかだ。おそらくはわたしはわずらわしさのなかだ。ひとが水のために枯れている。ひとは枝葉に小さなニュアンスをもたす。

 ひくひくと笑う。ひくひくとわたしは笑う。空(そら)が一応は晴れているのと同じく、一音の漏れもなくゆくは、うわのそら、ひとりでひらいた。ものすごく分かれた時間がここに立ち現われていた。

 わたしは別の時間にひろがってしまったものにいちいちツバを湿す。風のゆきかたはじねんと明らかになる。あたしは新しく風を探す。

 ひとしきり舌を垂らしていた。あたしには雑音のなかの目、ただの目が見えている。それは牛の声をしていた。わたしは場所を失念した。わたしにはそれが牛のなかでの出来事に思えた。舌はひどく乾いていた。いきものは匂いのなかに消えた。わたしは会えた。たれかのうわさが肌に直に触れている。わたしは震えなければならなかった。蒸し暑い。

 おまえはいつ死ぬのかも分からないのか。おまえはいつ死ぬのかも分からないものの姿のなかへ、まるで無臭のなかへ隠れてしまったようだ。そこにわたしに、牛の目が必要になった。意識は遠のく。いや、見ていなかった。ただの匂いにあなたが立ち昇ってくるとも思えない。遠くで乾いた肉が踊った。ひとは息を吸った。わたしはと言えばかわいていた。

 しからびた(見た)わたしはただ雨水(うすい)の記憶のなかに留(とど)まるものだった。あなたは地面を叩いて、いながら響かない・・・。

 ひとは二種類の目を持った。牛の目と、牛の目とは呼べないもの。

 声を上げて駆け出す。わたしが言(こと)の漂いかたを知らないばっかりに。ひとは喉をひらいてしまっている。なにごとも捉える。その仕草にさわやかに酔(よ)っている。

 そとは暗かった。が、入口をいくつも見つめてはただからだのなかに何物もおらなくなったのを感じていた。いや、ひっくり返って眠っていたのだ。

 遠くに過ぎる。ひとは遠くに過ぎる。わたしが見つめていたものは誰かの目か。誰かが時間を忘れてただそこに顔を置いているだけになる、あのときの目か。

 わたしはあなたの不安ではなかった。どこへか音(おと)は揺らいでいく。日々は大音量をどこかに隠している。その目は探っていた。黒い黒い茂みのなかをまさぐってゆくとき、そのときと同じ姿で、同じ無感動で、同じ白さのなかで・・・。

 あるとき、わたしから大声の去っているのに気づく。ただもう広いというだけの場所へ大声は預けられてしまった。不可解なほどに晴れていた。大きな声を出す。誰かに似ている・・・。

 ひとは登る。あたしは足をほぐす。ひとは何かに連れられてゆく。わたしはただ足だけになる。名は初めてわたしを知った。わたしのトボけた姿が気にくわなかったとして、初めて名はわたしを知った。めったに起こることではない。

 不増の隅にわたしが立っていた。今、見つめていたことに気づき、さっと姿を隠したが、とてもとても、ばれないという訳(わけ)にいかない。

 無音声表情の涯てに、あなたがいた。声を容れるのではなく、あなたの表情に全てがかえされる。それから、微笑んでいた。あろうことか水の存在を忘れた。誰かが生きていた。誰かが訪ねていた。そこには十分な水があった。ひとりで舟を浮かべている。舟は優しかった・・・。