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 壁に一枚の絵がかかっている。もう何年そこにかかっているのだろうかそれはわからない。

 ひとりの男が絵に手をかけ、そのまま持ち上げると、すみやかに去ってしまった。

 たれもがああと小さな声をあげた。

「持っていかないでくれ」

なのか、

「ああ、持っていくのか」

なのか、そのどちらでもあるのだろう。

 わたしは絵を持っていった男に声をかけた。男は伸びをする。絵はもう手元にない。

「あの」

「はい」

「絵、なんですが」

「ああ、はい、すぐに新しいのを持ってきますよ」

そう言うと男はすみやかに去った。

 何を話したかったのかも忘れ、ぼんやり待っていると、男が、おそらくその新しい絵が入った額を運んできた。

 たれも溜め息をする。

 ただ男がかけた絵は先程と同じもののように見えた。

「あの」

「はい」

「絵、なんですが」

「はい、新しいものを、お持ちいたしました」

「新しい・・・」

 男はすみやかに去る。絵のなかを覗き込むようにすると、はてな、絵のなかの婦人は少しだけ前に歩を進めたようにも見える。気のせいかしら。

 椅子にかけ、タバコをくわえている男に声をかけた。

「あの」

「はい」

「この仕事は毎日ですか」

「ええ」

「それはどうも」

これじゃあとてもいけない。わたしはここを永久に去るつもりで少しうつむきがちに歩み出した。

 果たしてわたしは昨日と同じようにこの場所へ来ていた。

 絵のなかの婦人はやはり少しだけ前進しているようにおもえたが、気のせいかしら。

 1週間経ち、2週間経ち、婦人は、ああ、絵のなかから姿を消している。しかしそのことにたれも気のつかないらしい。

 男はわたしを見つけると、少しさびしそうに笑った。

 それからというもの、婦人の消えた絵は、来る日も来る日も空転し、わたしは妙な穴蔵に落ち込んだような気分でこの場を行ったり来たりするのだった。

「さみしい絵ですね」

「はい。いずれわたしも絵を描いてみようと思います」

「すると、これらはあなたの絵ではないのですか」

「はい。わたしは婦人がのいてしまうとは思いませんでした」

「わたしもそうです。しかしわたしも絵を描いてみようと思います」

 わたしは婦人の絵を描いたが、そこにあの、絵を運ぶ男も一緒に描いた。男は何の絵を描いたろう。

 わたしはまた絵を描いたが、あの場所へゆく必要のなくなっていることに初めて気づき、ゆっくりと、そして静かに驚いていた。

 男はもう絵の差し替えをやめただろうと思う。

 そうしたら、ひとの溜め息はどこへ流れていったらよいか、しばらく分からなくなるかもしれない。

 わたしはその溜め息が絵の具に混ざる音を聞くように思った。