<1016>「なんのなんの私は放射だ」

 何留むるものもなくただ適当に、ほんに適当に放射し、ひろがって、うはうはとしていらるるマは良い、、(しかし・・・)

 宇宙はものごついはやさでひろがっているとかなんとか、

 ゆくところまで行って、もうここからは縮まんなきやいかんと、ひろがった分はひろがった分だけ縮まらんあかんと、なったら、

「あんたそんなどこまでもひろがるとか、うはうはだとか言ってないで、はやくもう、いいから縮まんさいっ!」

と一喝されてしまったら、非常にしゅんとするんではないかと思うんだ、

 ねえ・・・と、小宇宙のわたしも思う訳でありますよ、

 あちこちに散らばんなさる、ひろがってひろがって、というのは生理、節理でしょうな、と、、して、ここへとどまんさい、ひとつに決めなさい散らばりなさんな放射とかあほな物言いしてたら仕方ありませんことよ、とこれは社会ないし世間でしょうな、

 しかしねえこれでお互いをしょんぼりさせていちゃしょうがなかろうと、ね、しょんぼりしていますそりゃあしょんぼりしていますよ、

 不特定方向へもてなしの波をざぁーっと流してゆくことが出来ず、しょんぼりしているのでないかなこのひとは、と思うことは沢山あるんですね(まず何をおいてもこの波流る、というのが肝心でね、「他人様を喜ばせる」とか「他人様の笑顔が」とあらはしてもどこかしっくりこないですね、波がせき止められず流るということが大事なんです、と思います)

 得度するのしないのにかかわらず、あれもこれもというのを、つまりは放射を、ちいこい時分から修行僧のようにいましめられている部分が少なからず傾向としてあるのでしょう、と、そこをやはり乗り越えてゆく、なんのなにがしわたしは放射だ、と、なんのなんのわたしは波になって流れてゆきますどこまでも、ということでしょうね、