<1259>「身の粘度」

 絡めてくるものの長い時間を振り解き、

 もたれてくるものの長い呼気の合流を払い、、

 非常な速度で抜け出でたいという欲望はあって、私がそれを否定したところで意味がないでしょう、

 それは人がささやかな会話の行き違いにも感じているところです、

 もたれ、からまってくるものをいっときに振り解きたいという願いは必ずあるようです、

 それはどうしますか、

 

 それは動きとしてもっているよりほかに仕方のないことで、

 私は先鋭化でものすごい速さで抜け出でたあと余計に絡まっている動きの全体を私の外側だと考えておしまいにしておくことは出来ないでいるのです、

 ならば身振りはどうしますか、

 わたしが絡まりに対してもう今すぐにでも振り解きたいと当たり前に思いながらそれでも身体の芯をはじめとして所々でしみ出しべたべたとすること、、

 身体がもう非常な粘着度であること、

 ぐずぐずしていて非常に緩慢なこと、

 

 そうしてぐずつき、

 何か濁ったネを立てているもそもそした生命は、

 ひとり身の思考へ静かに接近しながらもやや離れてその全体像をぼうやりしながら把握するのです、

 私ひとりがはぐれているという思考の全体像へぐずぐずとしながら近付くのです、、

 

 あたしは鋭い視線でもってパフォーマティヴに繰り広がるひとり身の華やかな時間を肯定もしなければ否定もしません。

 あたしはその時間をもぐずついた、、べた、べた、とするもっと底の緩慢なものに巻き込み全体的にぬらぬらねらねらと移っているのか移っていないのかというところへ入ってゆけるとぼうやり考えているのです、

 時々そこにはっきりとした陽が射しゆっくりと照らされているなかで呼気はあまりにも単調に漏れるのです、

 

 この緩慢な渦に巻かれていちばんしたの、ひとりがかがんで慎重に、遊びとして歩いているところ、ひとりみのところへおりていって、身振りをおなじゅうします、

 それはあまりにも身近なことで、

 しかしひとり身だからこんなことを思うのかしら、とも考えつかなかったことなのです、、

 みなさんというただの空間へ、

 わたくしがべたついていく、、

 さらの日の身振りに、

 ひっつき、 垂れ、 じわじわじわじわえんえんと流れている、、

 流れているのをまじと見、

 さらの日はその日から静かな動きをもつ、、

 また身体のなかでもぞもぞとするでしょう、

 一体もたれて、もたれて、、

 剥がれてまた生えて、

 巡って、

 小さな渦に投げ出され会っていて・・・