会話の難しさ

 私は話すことそれ自体は好きである。しかし好きなのにも関わらず、「会話」は苦手だ。 他者と思考を交流させる「対話」については、好きでもあるし、比較的得意でもあると思っているのだが、お互いの関係を確認し、あるいは深め、共通の時間を分かち合う「会話」はどうも上手くいかない。何故なのか。

 

 こと「対話」において、重要なのは語られる言葉の「内容」であるが、「会話」において重要なのは「内容」ではなく「雰囲気」や「空気」であって、言葉の意味はなくても構わない場合すらある。 そこで「会話の上手い人たち」は、言葉から意味を半ば抜きさって、声のトーンや表情の方に重点を置いて話す。 私はこの「言葉から意味を抜きさる」行為が苦手である。どうしても言葉の意味にこだわってしまう(意味を意識していないような「適当な自分」を無理やり演じることはあるが)。だから「会話」が苦手なのだろう・・・。

 

 しばらくの間、私は「会話」が苦手なことをコンプレックスに感じていたため(今もそういった部分は少しあるが)、言葉の意味など全く考えていなさそうな、言葉が脳を経由せずに口からそのまま出てきているような様子で喋る「会話の上手い人たち」を馬鹿にしてきた。 しかし最近は考えを改めつつある。

 

 養老孟司さんが、猫のような生物には人間の言葉は通じないけれども、声のトーンや喋り方、表情などを駆使すれば、猫と人間の間でもちゃんと意思の疎通が図れるといったようなことを語っていて、そのときにハッとしたのだ。 今まで馬鹿にしてきた「会話の上手い人たち」は、ひどいことを言えば「頭が足りないんじゃないのか?」とさえ私は思っていたが、頭の足りていないのは私の方であった。彼らは「会話」の経験をたくさん積むなかで、「会話」を最上の形にまで徐々に洗練していたのではないだろうか。 それを頭で意識してやったかどうかは別として。

 

 つまり「会話」は「対話」に比して頭を回さないだけ程度の低いものである訳ではなくて、声のトーンや喋り方、表情を洗練させれば、猫のような、人間ではない生物とも意思の疎通を図れるという非常に高度なものなのだ。

 「会話」に対してとんでもない思い違いをしていた。 「対話」のような形式ばかりを重視してきた私が、ここから「会話」を洗練させていくのにはまた非常に時間がかかるだろう。 しかし徐々に洗練させていければと思っている。

 猫と一緒に生活すれば上達も早まるであろうか・・・。