誰であろうと 「今」 死ぬ

 誰もかれも、まさか「今、死ぬ」とは思っていないんじゃないかというのは、『遺言について』の中で書いたのですが、よくよく考えてみれば、人間は、

「今という瞬間でしか死ねない」

のだろうと思います。というのも、何だか漠然と「いつかくる未来」なんてものがあると思っていても、結局「いつかくる未来」なんてものは無いんです。それは想像上の物で、人間は「今」という空間から飛び出ることはできません。延々と「今」が続いていて、ずっと「今」にいるより他ないのです。

 ですから、若い人からお年寄りまで、誰もが「今」死にます。ただ、私もそうですが、「今死ぬ」ということは「理屈」では分かっても、体感としては、あまり理解していないんじゃないだろうかと思います。死ぬのは「今」じゃなくて「先」だとどっかで思っている。例えば、お年寄りになって、もう充分生きたと感じていても、実際に死に限りなく接近すれば、

「もう俺は死ぬのか」

と思う気持ちは少なからず残るんじゃないでしょうか。若い人に比べれば、寿命というものにかなり近づいている訳ですが、それでも「まさか今死ぬわけない」という考えが歳をとっても完全には拭いきれないからだろうと思います。

 また、若ければ若いほど、より一層「今死ぬわけない」と思いがちで、死は「先」にあると思いこむ。しかしいくら若かろうが死の訪れは「今」です。「先」じゃない。 よく若い人が亡くなると、

「未来のある若者が・・・」

なんていう言われ方をされます。気持ちは分かりますが、何度も言うように若い人だろうがお年寄りだろうが、「未来」なんてありません。あるのは「今」だけです。

 こういうことを考えていると、「死」というのは、常に自分に限りなく接近しているものなんだなという思いを強くします。何故なら、死が「先」だとか「未来」だとかいう、自分の存在する空間とは別の空間に存在するのではなく、「今」に存在しているからです。

 「未来」なんて無いという話に関連して、私は、

「明日やろうはバカ野郎」

という言葉が、いままで良く分かりませんでした。

「明日やるならば、それで良いじゃない」

と思っていました。しかし、「未来」と同様、「明日」なんて永遠に来ないんだということを自覚したことで良く意味がわかるようになりました。「明日やろう」の「明日」が存在しないんだから、永遠にやらないということなんですね。