種の保存だって生命の道理じゃないか・・・

 以前、『生死の問題は、元々意思の外にあったはずだが・・・』というものの中で、生きるとか死ぬとかいう問題は、人間の意思には関係の無いものであるということを書きました。なので、自死を選択するというのは、「生命の道理」に反するのではないかと思っています。

 そして、よくよく考えてみると、当たり前ですが、

「種の保存」

というのは、「生命の道理」に適っている訳です。

 しかし私は、自殺を、

「生命の道理に反する」

として否定しておきながら、一方で種の保存に対しては否定的な考えを持っているのです。これは立派な矛盾です。「生命の道理」を見据えたうえで考を進めるのであれば、種の保存については肯定していかなければならないはずです。しかし、それを感情が許しません。

 何故なら、避妊の術を知らず、何だかよく分からないまま、まぐわっているうちに、懐胎してしまったというようなことが当たり前な時分ならまだしも、どのように避妊を行えば良いのかが広く知れ渡っている今の世の中において、避妊をせずに行為に及べば、子が宿る可能性のあることを承知で行為に及び、今まで数多あったであろう自らの苛烈な体験を忘れ、世の中の厳しさを忘れ、これから先、様々の理不尽に遭遇することになるということを承知で、無垢な子供を世に誕生させ、そして時がたてば、一人で社会に出ていくように促していくという一連の残忍な行為を、理性のある人間が行っても良いのかという疑問が頭から離れないからなのです。

 子を産むということがそれだけ残酷であるということを知りながら、我が子の前で、

「しょうがない、これが生命の道理だ」

と居直れるかどうかと言われると、それはちょっと厳しいところがあると言いますか、残酷な思いを子どもがすることは、生命が宿る以前から百も承知だったのにもかかわらず、子どもに向かって、

「これが道理だからしょうがない」

とは、口が裂けても言えないような気がするんです(以前にも書きましたが、子どもが自ら「これが道理だからしょうがない」と気づくことは大事だと思います)。

 多分、この問題は、一生考えても答えの出ないもののような気がします・・・。確かに、種の保存は、「生命の道理」に適いすぎるほど適っています。しかし一方で、残酷すぎるくらいに残酷な行為でもあるのです。