理屈に対して過度な信頼を寄せるのは危ない

 家族と話を、あるいは議論をしていて、その時に私が、

「これはAだから、これこれこうなってBでしょ」

と理屈を言っているのに、それに対して、

「でもそれはイヤ」

であるとか、

「そんなこと聞きたくない」

というように、感情でもって返事をされると心底ガッカリすると言いますか、

「何でちゃんと理屈で会話が出来ないのか・・・」

と半ば呆れてしまって、もうそういった真面目な議論をするのはやめようと思い、どんどんと家族とは話さなくなっていく訳です。

 しかし一方で、確かに理屈でもってちゃんと議論を出来ないというのは問題ですが、私の方でも、あまり全面的に理屈を有難がりすぎるのは良くないな、ということを思うのでした。

 というのも、議論の場だけならば、理屈を徹底的に有難がっても良いのですが、その信奉が生活全般にまで及んでくると、逆に危ないぞ、ということを思うからです。何故というに、感情であるとか感覚であるとか、例えば、

「なんかイヤ」

というようなものは、センサーとしては物凄く正確だからです。話を聞いている限り悪くはなさそうだ、しかしなんだか嫌な予感がする、という場合のその「嫌な予感」というのは、実体験で言うと、大体当たっています。

 こういった、理屈では間違っていないんだけれども何故か嫌な予感がするという場面に出くわしたとき、理屈を自分の中で徹底するあまり、自らの直感的「嫌な予感」を軽視し、信用しないという姿勢をとると、その嫌な予感は的中していたにもかかわらず、理屈の上では間違っていないがゆえに、グイグイと良からぬほうへ、なされるがままに引っ張られていってしまう、ということになりかねません。

 勿論、理屈でちゃんと済むところは済むところで徹底すれば良いのですが、だからといって感情や感覚の優位が失われる訳ではなく、そこは対等に見ていかなければいけないような気がします。