「とりあえず」という認識

 昨日、正しくない判断を修正する段に至ったときに、意味が邪魔になるのではないか、ということを書いたのですが、それにもうひとつ、

「とりあえず」

という認識が欠けていると、修正速度は落ちてしまうのだろうなということを思いました。

 つまり、『数の多さを、「正しさ」の代わりにしても良いのだろうか・・・』でも書きましたが、「正しさ」なんていうものはなく、あるのは現象だけであって、しかしだからといって「正しさ」とは何かを決めずに放っておくわけにもいかないから、

「とりあえず」

賛成する人の多さ(数の多さ)を、「正しさ」の代わりとして使っている訳です。よって、今世の中で言われている「正しさ」というものは、どこまでも

「とりあえずの正しさ」

でしかない訳です。

 にもかかわらず、世の中で定められている「正しさ」を不変のものだと認識し、後々に、「正しさ」の変更が起こることなど全く考えられない、というような捉え方をしてしまうと、その後世の中の価値観が変化し、今まで正しいとされていたことが全く通用しないような状況になっているのに、制度の上ではまだまだ過去の「正しさ」を引きずり続けてしまうということになりかねません。

 ですから、良くないと思われるシステムは即座に捨て去り、新たなシステムを素早くはめ込めるような社会にしていくためには、「正しさ」なんていうものは不変のものでもなんでもなく、

「とりあえず」

のものでしかないんだという認識を持つことが重要であると思いますし、冒頭で述べたように、

「とりあえず」

という認識を持てない社会は軌道修正も遅くなると思って間違いないのではないかと考えています。