そもそも他人というのは得体の知れない存在だ

 以前、『たまに見せる側面が本当の姿だという錯覚はどこから来るのか』で、私たちは、自分自身の情報量の多さで既に手一杯で、自分以外の他人もまた、それだけの情報量を持っているという事実に直面すると、処理しなければならない情報が多くなりすぎて疲れてしまうから、勝手な思い込みや決めつけを使って、他人の情報を単純化したがる、ということを書いたのですが、それ自体は別にかまわないし、私も例外なく、他人の情報を勝手に単純化して処理しやすくしている訳です。

 しかし、何か想定外のことが起こるたびに、

「あの人が何故、どうしてそんなことを・・・」

であるとか、

「あんな人ではなかった・・・」

と言っているのを聞くと、

「勝手に自分の都合で他人の情報を単純化しているくせに、その単純化された情報のことを、勝手にその人の全てだと思い込んでいないか?」

と言いたくなります。そもそも、一人の人間の中には、物凄い量の情報が含まれていて、その上、本人ですら自覚していない側面が多々あるくらいなのです。故に、他人(または自分自身)というのは、それこそ得体の知れない存在なのです。

 ですから、

「ははあ、なるほど。この人はこういう人なのね・・・」

と、何でも他人のことを分かったつもりになっていても、分かっているのはその人の本当にごく一部で、実際のところは、他人のことなんてほとんど何にも分からないというのが常だと思います。

 たしかに、理解の及ばないことをしでかす人が出現するたびに、

「何故だ」

と言いたくなる気持ちも分からないではないですが、そもそも他人というのは理解の及ばない存在なんだということを認識していれば、別に何故だもクソもないと思います。

 ただ、難しいのが、理解の及ばない存在に囲まれて生きているということをはっきりと認識すると、とてもこわいので、本当はよく分からないはずの他人を、何でも自分の理解の範囲内に収めてしまおうという欲望に駆られて、勝手に単純化して決めつけてしまい、

「それは自分の勝手な決めつけなんだから、ごく一部分だよ」

と分かってはいても、この決めつけて単純化した情報がその人の全てだ、と脳に錯覚させたいという気持ちが起きてきてしまうということです。これについては、ただ、

「理解の及ばない」

というこわさに、徐々に慣れていくより他に仕方ありません。