傍から、第三者として、好きでいたい

 誰でも著名になってくれば、少なからず「ファン」というものがついてきます。そして私も、様々な著名人の一ファンであったりする訳ですが、いくらファンであったとしても、その著名人に、

「ファンは俺の家族だ」

であるとか、

「ファンは皆仲間だ」

というような仲間意識を出してこられると、途端に寒気がしてしまうのです。

 勿論、それが原因で、好きな著名人の活動を見ることを辞めてしまったり、嫌いになってファンを辞めたりする訳ではないのですが、仲間意識を持ちだしてきた部分に関しての悪寒というものは少なからず残ってしまいます。それは、どんなに好きな著名人であってもです。

 この感覚を覚えてしまうのは、勿論著名人の所為ではなく(仲間意識を出してきてくれて嬉しいと思うファンの人も大勢いるでしょうし)、私自身の問題で、というのも、私は、

「家族だとか仲間だとか、そんなもの全く関係ないところでファンになっているのに、あるいは、そういうものを感じなくて済むという領域があることが助かるのに、何故ここでもまた、家族や仲間を意識させられなければならないんだ、ただただ単純に、好きでいたいのに」

というように思っているのです。

 家族だとか仲間だとかいう意識は、嬉しい人にとっては嬉しいかもしれませんが、私にとってはただひたすらに「重たい」ものでしかないのです。そうではなくてもっと傍の方で、自由で気軽に、ただ好きでいさせてほしい、好きというだけで家族だとか仲間意識に連れ込まないでほしい、という気持ちが強いのかもしれません。

 ですから、それがどんなに好きな著名人であっても、ただ好きというだけでいきなり仲間意識のなかに連れ込まれることに対する嫌悪感は強いです。