「死ねよ」という冗談の救いの無さ 「殺すぞ」という冗談の救い

 「死ねよ」

という冗談が、何のためらいもなく頻繁に交わされ合うことに、私は激しい違和感を抱いていた。

 中学生の頃の話である。普段の何気ない会話の場面で、特に相手に強い恨みを抱いているようにも見えないのに、平気で、

「死ねよ」

という言葉が放たれる。勿論、それはその言葉が冗談であるからで、本気では思っていないからこその、その気軽さなのだろう。

 しかし、たとい冗談だとしても、私は、

「死ねよ」

という言葉が放たれるのは好きではない。何故と言うに、この言葉には救いが無いからだ。

 「死ねよ」

という発言には、命に関する言及がありながら、それでいて発言者の関与がまるでなく、さながら発言者が、相手の命に対して無関心であるかのような雰囲気が漂っている。つまり、

「あなたの生命など消えてしまって構わないが、私はあなたの死に直接関わりはしない。勝手にしてくれ。というよりあなたなど、どうでも良い」

という突き放し、生死のことには言及するけれども、その責任は負わないという冷たさが、

「死ねよ」

という言葉からは感じられるのだ。だから、この言葉には救いが無いのだ。

 これが、

「殺すぞ」

という冗談なら、なるべく言われたくないにしても、まだ救いがある。生死のことに言及してはいるが、その分の関与がある。突き放しがない。

 殺すというのは、自分も手を汚し、積極的に関与していくということだから、その冗談を受け取る方も、

「ああ、生死のことに言及していながら、責任は負わないという冷たさが発揮されていないな」

と感じることが出来るので、その分救いがあるのだ。