自己正当化欲求の強烈さ

 『私は、間違ったことをしたとは思っていない。正しいことをしたのだ。』

 

 明らかに悪いと思われる行為、大方の人の意見が、

「間違っているに決まっている」

で一致するような行為について、当事者が上記のような発言をすると、

「あの人は頭がおかしいのか。一体何を考えているんだ。とんでもない奴だ。」

というような声が多数派になるだろう。

 そうなっていくことは、まあ仕方が無いし、至極当たり前の反応だというようにも思う。が、私は、そういう発言をする人達が特別に、

「頭がおかしい」

とは思わない。何故と言うに、人間にとって、

「自己を正当化したい」

という欲求は、耐えがたいほどに強烈なものであるからだ。

 例えば、冒頭のような発言をする人とは反対に、自己の罪を真摯に受け止め、

「私が間違っていました。」

と発言する人でさえ、

「私は罪を認めているのだから、その点においては、罪を認めていない人よりも、より正しいのだ」

というような自己正当化を、おそらく行っている。そして、そうやってちょっと穿った見方でものを見ようとしている私は私で、

「自分は、罪を認めるにしろ認めないにしろ、皆それぞれの仕方で自己正当化をしているのだ、ということに気づいているから、その分だけより正しさに近い」

というような自己正当化を行っている。そして、そのことをここで書いて見せる私は、「皆がどんな形であれ自己を正当化しようとしていることに気づいているから、より正しさに近いのだ、というような正当化を行っている自分がいることに気づいているから、より正しさに近いのだ」

というような自己正当化を行っている。

 と、このように、

「自己正当化」

のスパイラルに一度嵌れば、そこから抜け出せなくなっていく。どうやっても自己正当化からは逃れられないような事になってくる。

 なんとか、この、自己正当化のスパイラルから抜け出す方法は無いものだろうか。それは自己を否定してしまえば簡単だと思うかもしれないが、自己を否定するのは、

「罪を認めるという仕方で自己を正当化」

するのと、形式的には同じだ。

 おそらく、自己正当化克服、超克の方法はひとつだけである。それは、全ての事象をただただ受容するという方法だ。自己の海に汚濁物が浮かんでいても、それを正当化の網で回収せずに、そのままにしておくのだ。しかし、意識はしていても、大抵は知らず知らずのうちに、網ですくってしまうだろう。汚濁物について肯定・否定の判断を加えず、決断もせず、ほうっておくという行為には、それはそれでまた別の激しい苦痛が伴うからだ。