瞬間々々がべとついている

 もう気が済んだのか、はたまた、他のことに関心が移ったのか、さっきまでビャービャー泣いていたのが嘘のように、赤ん坊が今は無邪気に笑っている。

 ひとたび泣きだせば、そう簡単に笑顔へとスイッチが切り替わらないのが当たり前だ、という考えが染みついていた私は、赤ん坊の、表情の切り替わりの速さがあまりに可笑しくて、つい、ふふっと笑ってしまう。

 しかし、瞬間々々が断続的であることを思えば、さっきまでは泣いていたのに、次の瞬間には笑っていた、などということの方が、実は自然なのではないかというように思えてくる。反対に、ひとたび泣きだすと、思い切り泣いている瞬間はともかく、泣きのピークが過ぎ去った後いつまでも、グスングスンと泣きを引きずっている方が不自然のような気がしてくる。

 不自然かどうかは置いておくにしても、引きずる泣き方は、断続する瞬間それ自体のキレが悪いと言うことが出来るかもしれない。また、言い換えるならば、瞬間々々が、いやにべとついているのだ。

 ただ、赤ん坊から大人になる過程で、瞬間々々というものは徐々にべとついてくるという訳でもないとは思う。そういう訳ではなく、

「瞬間とはそういうものだ」

という勝手なイメージ、決めつけが、瞬間々々をそうさせている部分が大いにあると思っている。それが証拠に、延々と泣いている場面でも、

「あれ? 私は確かにさっき悲しい事があったから泣いていて、今もそれは続いているんだけど、特にもう悲しくはないぞ。 じゃあ何で泣いているんだ? 惰性か?」

と思うようなことがよくある。つまり、悲しいから泣き続けているのではなく、悲しくなくなった後も、泣いているからとりあえず続けるか、みたいな意識で泣き続けていることがよくあるのだ。

 きっと赤ん坊は、なんとなく泣いているから続けるか、という意識(あるいは無意識)、泣いていたらしばらくは続けるものだという観念が無いから、切り替えがすさまじく速いのだろう。