分からない領域は「今のところ分からない」としておけば良いじゃないか

 以前、『「信じる」と「諦める」』で書いたことに関連するのだが、どうも、

「信じる」

だとか、

「信仰する」

だとかいう態度に馴染めないというか、ちょっと分からないなと思ってしまうことが多い。

 それらの態度の何に違和感や不安を感じるかといえば、例えば、人間にとって、

「分からない領域」

にあるものなのに、その領域に対する一見解を、

「正しい」

と思いこんで、後は、その見解以外の可能性もあるのではという疑いを排除していってしまうというところにひどく違和感を覚えてしまうのだ。

 何故、

「分からない領域」

なのに、あるただの一見解を正しいと決めて信じ込めてしまうのだろうか。そうじゃないかもしれない可能性についてはもう全く気にならなくなったのであろうか。もし本当にそう信じ込めているのだとしたら、それはとても不思議なことに私からは見える。

 「分からない領域」

については、思考を放棄することなく、どれかに決めてしまうこともなく、無闇に何かを信じずに、

「今のところは分からない(いずれ分かるかもしれない)」

としておけば良いではないかと思うのだが、とりあえず何かを正しいと決め込まなくてはやはり不安だろうか。私は反対に、何かひとつの見解に決めてそれを信じ込んでしまうことの方が不安は大きい。