実質上の親子から名目上だけの親子へ

 自発的にそういう気持ちが起こってくるのならまだしも、何故親に対する感謝の念を外から強制、強制とまではいかなくても、促されなければならないのか。嫌な思い出、ひどい行いをされたことだって多分にあるはずなのに、何故、親に対して感謝も出来ないような奴はダメだと無邪気に切り捨てられなければならないのか。

 こういう類のことを、もうしつこいぐらいにずーっと疑問に思っていたのだが、ここへきて、親に対する感謝の念が浮かびそうな気配、過程が見えてきたかもしれないので(もうこの問題で怒ることに飽き始めてきたのかもしれない 参照『飽きるまで食らうのが大事じゃないか?』)、ちょっとここに記してみる。

 つまり、名目上は、絶縁でもしない限り死ぬまでずっと親子は親子な訳だが、実質上も親子である(あるいは親子的である)かどうかは、その時々によって違う訳で、全く血も通っていない赤の他人かのように感じているときもあるだろうし、いやはや、やはり親というのは最愛の人物で、いつも自分を目一杯愛してくれているのだと感じているときだってあるだろう。

 それで、残酷なようだが、実質上も親子であるときは、私の場合はなかなか感謝の気持ちも起こってこないのだが(親なんだから子に対するひどい行為は許されるものではなく、全面的に子どものことは肯定するべきであると考えているから)、名目はどうあれ実質上は親とは感じられない、あんなひどい人たち親でも何でもない、赤の他人と何ら変わりがない、と思い始めると、不思議と感謝の念が湧いてくるようになるのだ。

 どういうことかというと、実質上は他人と何ら変わりがないという処理を自分の中ですると、今下したその判断が出生時にまで遡って適用され、

「そうなると当然、生まれたときからこの人達とは赤の他人だった」

と考えるようになり、

「そう考えると、赤の他人の割には過去随分と良くしてくれてきたなこの人達は」

と思い始めることが出来るようになるのだ。

 親はあくまでも親なんだとしたら、とてもじゃないけど許せないということが沢山あるが、赤の他人だとするならば、概ね感謝することばかりである。

 ひょっとして、世の中の人があまりにも容易に、

「親に感謝、親に感謝」

と繰り返すことが出来るのは、もう親を親とも思っていないからではないのだろうか。