過程のひとつだとして見直してみれば、そんなに文句を言う必要もないのでは

 不毛な時期、腐っていた時期を経て、何やかんやの偶然やらタイミングやら当人の努力に拠る飛躍やらで、そこから抜け出した人が、他人に向かって、

「腐っているのはやめようよ」

と言っているのを見ていると、もちろんそれは切実な願いでもあり、不毛だったころの自身に重ね合わせて、さながら自分自身に送るようなつもりで心からの投げかけを他者に行っているのだろうことは想像できるのだが、

「そんなことを(今腐っている人に言っても)仕方がないなあ・・・」

という感想を抱いてしまうのが正直なところだ。

 前述のように、そういったところから抜け出すことが出来る為には、そこに、当人の努力だけではなくて、運やタイミングといったことが多分に関わってくるからだ。当人はそんなことないと反論するかもしれないが、

「考え方が変わって腐らなくなったから、状況が好転した」

人よりも、

「状況が好転したから、それによって腐る必要が無くなった」

人の方が圧倒的に、世の中には多いだろう(もちろん、その状況を努力によって整えることに成功した例もあるだろうが)。

 そりゃあ人間、良い状況にあれば、良いことを考えざるを得なくなるし、腐っている他人に、かつての自分の姿を認めて、

「うわっ」

と思うことも増えるだろう。しかし、その差を生んだのが本当に自分の努力だけに拠ったのか、ということについてはよくよく考えてみる必要がある。

 それに、

「腐っているのをやめよう」

と投げかけている人は、その時期を自身でどう捉えているのか分からないが(もしかしたら、「無駄だった」と捉えているのかもしれない)、私は、以前に『飽きるまで食らうのが大事じゃないか?』で書いたように、そういう時期というのは、腐ることに飽きるために必要な時期ではないかと思っている。

 中途半端に、

「腐っているのはよくない」

という常識に引っ張られ、腐るのをやめてしまったら、ちゃんと消化しきれずに、腐った部分がいつまでもぶすぶすと自分についてまわるのではないだろうか。

 もし、そういった不毛な時期から抜け出すのが良いことなのだとすれば、腐っている時期というのは、それに飽きるために必要な過程なのだと思えば、そんなに口うるさく、腐っている他人に対して説教臭いことを言わなくても済むのではないかと思っている。