どうしても、目に見える表面でしか捉えられない

 自らの町の、定点観測企画展なるものを見に行ってきた。つまり、数十年前の町と現在の町とを、同じ地点から撮影したものを見比べて、今住んでいるこの町がどれだけの変化を遂げたのかというのを、写真を見ることで確かめることが出来るという訳だ。

 それなりに発展を遂げてきた結果としてのこの町のことを、何だかずっと前からこんな感じだったのではとつい思ってしまう錯覚を、その企画展が綺麗に取り除いてくれただけでなく、それ以上にその企画展は純粋に私を圧倒し、

「ああ・・・」

というつぶやきを漏らすことしか出来ない状態にしてくれた。

 そこに写っていた数十年前のこの町は、田んぼと森と、少しの家々がぽつぽつと点在するだけの、ただの田舎町であった。いや、町とすら呼べないかもしれない。ただの村であった。

 「あーそうなんだ。この場所もまだ田舎だけど、数十年前はもっと田舎だったんだ。でも各所に今の町の雰囲気を感じさせるものがあるね。やっぱり同じ場所なんだね」

と思わせてくれる面影がまるでない。ただの違う場所がそこには写っていた。しかしこれは、今の町を写したところと同じ場所から撮っていると謳っているのだから驚きを隠せない。何千年、何百年昔だと言うのなら分かる。たった数十年前だ。とてもじゃないが私には信じることが出来なかった。

 もし、場所は今と同じ場所のままで数十年前にタイムスリップさせられたとしたら、私は、

「場所は全く動いていないんだけど、時間だけが遡ったのだ」

ということに気づくことが出来ないだろう。それぐらい別の場所に見えるのだ。

 それだけ人というのは、目に見える表面でしか同じ場所を同じ場所としては認識できないということだ。

 私が今住んでいる、発展していると思っている町は、ほんの数十年前には田んぼと森しかなかったのだ。それはどういうことだろうか。いや、今もその、田んぼと森しかなかった地に立っているのである。ただ、木を切ったり、コンクリートを上から敷いただけの話だ。今も完全にそこと同じ場所にいるのだ。

 それなのに、ちっとも同じ場所として認識出来やしない。表面が変わると、その表面だけが全てだとしか思えなくなる。

 これはあり得ない想像だが、明日の朝起きたとき、自分の住居はそのままに、外の景色だけが一面の田んぼと森とに一変してしまっていたら、私は何を思うのだろうか。まずは夢だと思うだろう。しかし夢じゃないことを確かめたら・・・?

 おそらく、自らの住居だけそっくりそのままどこかに移されてしまったと考えるのではないか。まさか同じ場所だとは、人に言われても容易には信じないはずである。