言い訳のために分別をつけだす

 「何か新しいジャンル、作者の本に手を伸ばし始めたいな」

と思う時期がある。そういったとき、新しいジャンルや作者は一体どういう基準の下に選ばれているのか。それは、

「なんとなく」

という基準の下にだ。

 そう言うと、何も考えずに適当に選んでいるかのようだが、この、

「なんとなく」

というのがとても大事で、というのも、なんとなくという気持ちは、理性で考え出す前の感覚に非常に身近なものであるからだ。身体感覚に近い基準で選んだ本は後々、

「読んで良かったなあ」

と思えることが多い。

 反対に、

「これを読むか否か」

といったような分別なんかは、どちらかというと、

「しっかりと良い本を探すため」

というよりは、

「なんとなくの感覚で選んだ本に対し、読まない言い訳をつけるため」

に機能していることなどが多い。

 新しいジャンルや作者に手を伸ばすことは、もちろん喜びではあるのだが、同時にものすごく体力を使うことになるため、

「なんとなく」

の基準で選ばれたものに対し、

「いや、これはどうかな? 別に読まなくても良いんじゃない?」

など、体力を温存するために言い訳として分別が機能してくるのだ(もちろん、だから分別は常に悪だと言いたい訳ではない。言い訳としての多少の分別が無ければ、好奇心で息切れしてしまう)。