以前、『過程のひとつだとして見直してみれば、そんなに文句を言う必要もないのでは』というものを書いたが、どうも私自身、なんとなくここのところ腐らなくなってきていて、横たわる感情が、心なしか温かなようになってきている。
ここで、説明が追ってくる。むろん、
「何故腐らなくなったのか」
という問い、謎へと向かって、だ。自身で、
「腐らなくてよくなったのは、努力だけには拠らない。運もタイミングも関わってくる」
と言っておきながら、
「やっぱり、お前の努力が実ったんじゃない?」
「自制心があるんだよ」
「ちゃんと克服できたんだよ」
などといった、都合のいい、努力型の合理づけが私を追いかけてくる。何故追っかけてくるのか。なんのことはない。その謎とこれらの説明が付着すれば、私に大きな快楽が訪れるからだ。
しかし、これら付着の気持ちが良いことを知っていながら、私はこれらを振り払う。謎にこれらを付着して済まさないよう努めている。
「そんなもの、分かりっこないよ」
という、気持ち良くもなんともない、冷たい説明が、他のどんな好意的説明よりも、その謎と合致することを知っているからだ。
腐らなくなった本当の理由なぞ、問うたところで分からない。いや、その問いの繰り返しが、分かりっこないという確信を、徐々に強めるだけだ。