身体の遊戯性

  母親の後ろをひょこひょこついて歩いていた子どもが、ふっと立ち止まり、身体を右向け右して、そこにそびえ立つ大きなビルに向かって両の手を突き上げ、

「ワーッ!」

と叫んだ。

「何やってんの、早く行くよ」

戯れを咎め、母親はその子の手をひき、そそくさとその場を後にしていった。

 その、奇行ともとれる子どもの挙動を前にして、私はおもわずふふっと笑ってしまった。そしてまた、

「あれには一体どういう訳があったのだろうか・・・」

と考えてもみた。しかし、考えたとて、私はその子ではないから分かる由もなし、また、たとい実際に訊いてみたところで、

「さあ」

と、当の子どもですら困惑するであろうことが想像できた。

 疑問に思ったのは他でもない。既に私があのような戯れの衝動を失っていて、一方何故子どもにはあのような衝動が含まれているかというところの差が気になったからであった。

 しかし、待てよと思い直す。子ども自身にもあれの意味は分からないはずということが想像されるに、あれは衝動とか欲望とかではなく、ただの一連の動きだったのではないかと。あれが突然の奇行に映るのは、規則的な延々の歩行という不自然を、自然と思いこんでいるからではないのか。

 子どもにとって、あれは挙動の一部でしかなく、そこに戯れが生じていたとすれば、それは元々の身体が持つ遊戯性の故ではなかろうか。それは、挙動を一定方向に制御されていない余裕の程度と言い換えても良い。

 私が徐々に失いつつあるのは、戯れの衝動ではなく、身体の遊戯性なのではないか。もちろんそれには精神も大いに関わってくるのではあろうが。

 もしかして、私より遥かに年配の方が私の挙動を見れば、まだまだそこには相応の遊戯性を見出すかもしれない。

「はて何故あの青年はわざわざあのような不自然な遊戯を・・・」

と、ただの挙動を見て思うかもしれない。