老いていくことと、鍛えること

 昨日、ヨガの話を書いた序に。まだ、老いることを考慮に入れて日々を送っていかなければならない、というような切実さに悩まされるほどの年齢ではないが、運良く生き延びれば、必ず私にも老いの問題が迫ってくることは確かだ。

 今は何の気なしに軽く身体を鍛えているが、老いていっても尚身体を鍛え続けるとして・・・それは不自然な抗いにはならないか、ということなどを考える。

 考える、というより、その想いが頭をよぎると言った方が正確だろうか。そのよぎった想いを受けて、すぐに、

「いや、鍛えることは抗うことかもしれないが、別にそれが不自然な訳じゃない」

と思い直す。

 思い直したは良いものの、こういった疑念が頭をよぎるということは、

「もう、こうしている今も徐々に終わりに向かっていっている身体を、鍛えて何になるんだ、みっともない」

という不安が、常々から私の意識の中にあるということなのだろう。確かに、老いていくこと、徐々にお終いに近づいていっていることは間違いないが、一方で、鍛えていればこそ、幾つになっても元気でいられる可能性が高いという現実もある訳だ。老いて終わっていく身体というものを持ちながら、鍛える意味を問うたら確かにむなしい一方かもわからない。が、いつか動かなくなるとしても、出来るだけ元気に動ける時間は長い方が良いと思う気持ちも、私の中では強い。

 出来るだけ、出来るだけと鍛えて身体を維持していくことは、老いを受け入れないことなのだろうか。どうもそうではないような気がするが、今は、いまいち理由をはっきりと述べられないでいる。