存在の仕方からして必然

 何か虚しい・・・この虚しさを取り囲む現状は・・・ではこの現状を打破すれば良いのでは・・・と、なるべく虚しさに包まれないよう、外部条件を引きつける。

 このようにして動くことは事実慰みをもたらすし、またそれに加えて、これら一連の動きによって得られる効果は慰み程度のものなのだと認識していれば、それで何の問題も無いのだが、虚しさが身に迫ってくるのは、生という在り方からして必然のことであるのにもかかわらず(どうあろうといずれ死ぬのだから)、それを、外部条件が慰みをもたらしてくれたからといって勘違いし、外部条件の整い具合如何によって、虚しさは根本から無くすことが出来るのだという形で間違えると、疲弊し尽くすまで動きまわらなければならないようになるから危険だ。

 生きている以上、虚しさが根本から無くなることはないのに、虚しさが入ることを徒に怖れて、隙間を外部条件でギチギチに埋めてしまおうと考えると、自然と働きは無理をした過剰なものになってしまうし、また残念なことに、過剰になった働きに合わせて虚しさは速度を上げてくるだけだから、隙間を埋めようと必死の努力をしたところで虚しさから逃れられることはない。