本気と意味

 スタジアムを取り巻くぶわあーっという歓声に呼応し、下から順に身体の皮膚がひっくり返っていくような感覚に襲われ、まるで揺れに耐えきれなかったかのように、右目からさーっと涙がこぼれていく。

 「これはなんだ・・・」

落ち着いてのち、ふと冷静な疑問が湧く。本気でやろうが本気でやらなかろうが、そんなことは関係ない。ただ生きているから生きているだけなのだと常々確認しているはずの、この私の有り様は何なんだ。認識するや否やの反射的な総毛立ち、そして落涙は。

 「意味などひとっつもないじゃないか・・・」

そう、そして無意味にぶつかっていく健気さに共鳴しているのですらない。じゃあ何だ。例の「遊び」か。いや、そうなのかもしれないが、何かが違う。

 「意味が入っていない」

入る隙間がないのだ。本気だからか。

 「それが何になる」

という領域から、完全に脱出している。その突破に魅せられた震えなんだろうか。

 「これをやることが有意義で・・・」

 とか

 「こんなことやっても無意味だ」

 とか、確かにその前後にはあったのかもしれない意味の宰領が、そこのところの一瞬だけには挟まってすらいないという、束の間の完成に対しての震えなのだろうか・・・。