電車

 電車で、片道1時間ぐらいかけて美術館に行くつもりだったが、7人掛けの座席の端っこに腰掛けたときには、もうその意欲を失っていた。

 まあ、そのまま乗っていれば、そのうち行く気を取り戻すかもしれないし、嫌ならそのまま引き返せばいいか、特に何かの予定があるわけでもなし、と、持ってきた本をすぐ読む気にもならず、流れ続ける風景をぼんやりと眺めていた。

 そのうち、風景よりも、目の前に座るヤンチャそうなお兄さんの方が気になって、それでも、あまりジロジロ見るのも良くないだろうと思うから、感づかれないように目の端で、見るともなく見るようにしていた。

 見ているうち、このお兄さんは何だか、かつてお邪魔した、ちょっと入りづらいオシャレな洋服屋の店員さんに似ているように思われてきた。いや、あのときのあの店員さん本人じゃないだろうか。友達と一緒でなければすぐに退散したであろう雰囲気の只中に留まり服を見ている私に、ニヤニヤしながら近づき、マシンガンの如く矢継ぎ早に言葉を放ってきたあのお兄さんでは・・・。

 そう思って見ると、心なしか目の前のお兄さんもニヤニヤしているように感じられる。お兄さんがこちらを見ていない隙を窺って、1度ハッキリと顔を見てみたが、なんせ、あの洋服屋に寄ったのが随分前のことだったから、本人であるかどうか確かめようがなかった。

 確証が得られなかったためか、顔をハッキリと見たことに端を発して、今度は目の前のお兄さんが、かつて行った天丼屋で、大きな声で文句を言っていたお兄さんに見えてきた。私はそのとき隣のテーブルにいたのだが、確かそのときお兄さんは、奥さんと子どもを連れていたような・・・。

 そう思って見ると、お兄さんの顔がみるみるうちに曇っていくように感じられた。今にもまたあのときの怒りが爆発するように思えてならず、私は軽く腰を浮かし、上体をやや左に捻じって身構えた。

 と、電車は次第に速度を落とし、目の前のお兄さんは立ち上がってドア付近へと向かう。良かった、あのときのお兄さんだとすれそうでないとすれ、とにかく今日はここでお別れだと、捻じっていた上体を元に戻して、ホッと息をつく。

 ホームを歩くお兄さんを、電車が発車してからもしばらく目で追い続けていると、お兄さんは真っすぐに駅構内の蕎麦屋さんへと入っていった。お兄さんは天ぷらそばを頼むんじゃないか、なんとなくそんな気がした。