処理の速さを疑っている 重量感が無い

 本を読んでいると、今通過してきたばかりの文章を、果たして読んだのか読んでいなかったのかが分からなくなり、度々前の、通過してきた文章に戻り、一度読んだところからまた読み進めていく、なんてことをやってしまいがちだが、戻ったとしても、必ずや、

「ああ、やっぱりここは読んでいたな」

という結論に落ち着くことになるのに、何故そんなことを何度も何度もしつこく繰り返してしまうのだろうか。

 思うに、自身の、目が為す処理の速さを、意識の方で疑っている、いや、信じられていないということが、ひとつ理由としてあるのではないか。つまり、目はいちどきに何十文字、下手をすると何百文字という文字情報を処理することができるのに対し、意識は、

「そんなに処理が速い訳ないよ」

と疑っているということ、そしておそらく意識は、一文字一文字のスピード、そこまではいかなくとも、単語ごとに処理していくぐらいが適正、あるいは限界と捉えている(決めつけている)のではないだろうか。そうして、先行気味にどんどん文字列を処理していく目を、意識の方がちょっと待てと連れ戻しているので、何度も何度も読んだことのある文章に戻ってきてしまうという事が起こるのではないか。

 それから、これは他のところでも似たようなことを書いたが、過ぎ去ってしまった文章には重量感が無いから(『「ありがとう」という言葉が重かった』というのは比喩としては成り立つだろうが、実際、「ありがとう」という言葉自体には物理的な重さが無い)、何だか、通過したけれど通過していないような感じがして、何度も同じ文章に戻ってきてしまうのではないか。まあ、何度戻ったところで、そこには同じ、重さを持たない記号が控えているだけだから、徒労にしかならないのだが・・・。