<7>「彼(7)」

 例えば、得られずにいることを望んで、はあ、と溜息すらついていたにもかかわらず、実際にそういう場面に立ち会えると、何とも思わない、いや、これではないんだと思うことがあるだろう。では一体あのとき溜息までついていたのは何だったのだと思う? その落胆、嘆息こそあなたの欲していた瞬間であったとしたら、どうだろう? 私はあんまり馬鹿々々しいので笑ってしまったよ。こんなに面白くないことがあるかね。

 日曜日の食卓、用事もなければ労働もなく、朝から全員が揃っている時間。陽気なテレビの鳴る横で、ちょっと洒落た食い物を口に運んだりして、全体が柔らかくなっている、こういう瞬間が一番、何にも増して耐えられないのだということに気づいたとき、もう既に、現在のこの状況を想定出来ていたのかもしれない。ハッキリと未来を見たのはあのときだけだろう。それは、不和が原因に居座っていたためで、これから新たに仲の良い家族をあなたが築いていけば、そういった瞬間は耐えられるとか耐えられないとかいう次元で語られることもなく、かけがえのない瞬間としてあなたの前に立ち現われてくることになるだろうって? あなたはそんなおめでたい話を上っ面では信じても、心の底では信じることが出来ないよ。そういう瞬間が苦手であることの原因に、不和なんていう些細なものは全く関係ないということに、お前は気づいているからさ。

 寒さが心地良さを通り越して容赦なく吹きつけてくるようになると、そもそも歓迎なんていうものからは程遠いものとして在るのだということを、当たり前に思い出すね。暖かさにつられて歓迎されているような気持ちになっていたのは一時だけの錯覚だったんだ。でも、身に染みて感じる、歓迎されていないという感覚も、どうやら一時の錯覚らしい。こんなにも確かな実感として胸に迫ってくるものが全部錯覚だとしたら、私はどこへ向かったら良い? むろん、そんなことはどうでもいいのだが、ひとつひとつの実感は当然錯覚ではないとしたら、どうだろう? つまり物語の形成が錯覚だということにならないか。