<11>「笑い、笑い」

 ヘラヘラする以外に、態度がないと思っていたのだった。恫喝者に対峙しているうち、次第に自身も恫喝者となっていくことは防ぎ難い。だから、そうならないようにヘラヘラしているよりほかないと思っていたのだった。

 死者を尊重しようという姿勢が、おかしいと批難されることは稀であろう。そんなこと、と大して重要視していない人でも、徒に墓場を荒らしたりはしない。場所が、守るともなく守られている。では、未生者はどうか。今はまだ存在していないのだし、確認の取りようもないからと、著しく軽視されているように思える。かつて存在したが、今ここにはいない人々と、今ここには存在しないが、いずれ存在する可能性がある人々、そのどちらをも尊重するべきではないだろうか。

 人の親は、恫喝者になるか、さもなければ、呆然として何の言葉をも与えられないような存在になるかしかない。自由意思で参加した訳ではなく、生きていこうが今死んでしまおうが、どちらにしろ激しい苦痛が伴う状況に置かれているかつての未生者を前にして、理屈で何かを納得させることは不可能だからだ。よって、感謝とか恩とかいうフレーズで恫喝するか、恫喝することを諦めて途方に暮れるかしか、取り得べき方法がない(そういう状況で、殺してしまうという選択を取る人間がかつて待っていたのは、新しい命ではなく、所詮自分の思い通りに取り扱えるもの、つまりは私有物だったのである)。

 もう気づいただろう、私は明確に恫喝されてきたのだ(それは親だけとは限らない)。そして、そのことに対して怒りを募らせれば募らせるほど、私も同じ恫喝者としての顔を持ち始めるということにもすぐに気がつかれただろう。勿論、このことで延々と怒ることも出来る。理屈で何とかしようと奮闘する人間を、全員黙らせることも出来る。しかし、呆然として言葉を失った人々を前にして、なおも怒り続けることを私は好まない。そう、好まないというところが肝心だ。絶対的に有利な状況で恫喝を続けることは単純に美しくない。そう、美しくないというだけのことだ。ではどうするか。ピクピクする頬に慣れ、何とかヘラヘラし続けるのだ。反抗もせず、怒りもせず。何にもなかったかのように進む。しかし気がかりだ、寄る辺なくヘラヘラするものの姿は、恫喝者たることを免れているだろうか。ギリギリの線を渡り続ける。