<15>「集まり、バラける」

 長生きしようという大合唱にも共感できないが、さっさと死んでしまおうという話にも上手く折り合えはしない。納得のいかなさ、そういうものが生へと結びついている。それは、怒っている訳じゃない。ただただ納得できないのだ。何だこれは。治す、ということの大切さと不毛さを同時に思う。ひとつところに集合したものを、もういいよバラそうバラそうとして最初から動いているのに、治すとは・・・。それは、俯瞰で見ればおかしな映像に過ぎないのだろうが、しかし現場にとっては重要な問題だ。死ぬことの拒否、医療は、人が死ぬということを否定している訳ではないだろう。だが、背後にぼんやりとした、それでいて確固な拒否がなければ、それはバランスを失うのではないか。

 しょうがないということと悲しみとは両立する、というのが分かりにくくなった。なまじ様々なものが治るようになったために。しょうがないと言っている奴は悲しんでいないんだ、違う、そうではないのだ。積極的に、バラしてやろうという方へ動いている、そのひとつのきっかけだけを叩いても、また他のきっかけが必ず浮き上がって来る。そして、そのどこかで、しょうがないと思わなければならないタイミングも必ず来て、それを、諦めるタイミングが早く見えたからといって悲しんでいないと決めるのは早計なのだ。タイミングが早くても遅くても悲しいことには変わりないし、それに、目一杯早いものと、目一杯遅いものを比べても、そこに大した差はないのだから。