<16>「遊びと宙ぶらり」

 子どもが、遊戯であるという確信、いや、確信という程にも分離していないものを、何らの強制も受けずに生涯持ち続けたら(あり得ない仮定ではあるが)、宙ぶらりんであるということに愕然として慄えることもないのであろうか(遊ぶ存在であるということ即ち宙ぶらりんであるということを意味するだろう)。

 どうしてこんなことを思うのか。ひとつには、私が宙ぶらりんであるという確信を持つとき、背後にひどい不安が襲うのに対し(喜びもあるが)、宙ぶらりんそのものである子どもにはその不安がないように見えることから。もうひとつには、一度、為すべきことがあるという教育を受けてその立場にどっぷりと浸かり、しかし成長した後振り返ってみると、それは建前であり、根本は自由で、何の絆もなく(絆というのは見せかけだ)、宙ぶらりんであるということに改めて気づくことによって、不安は発生しているように見えることから。

 そう、為すべきことがあるという教育を一度も受けなかった人間というものを想定すると、どうも不安がっている映像が浮かび上がってこないのだ。かといって、その教育が悪いと言っている訳ではない。そんな人間がいたら、社会の中で動いていくことはおそらく出来ないだろう(社会というものの意味が分からないだろうし)。つまり、それが根本であるのに、それを意識すると不安が発生するように矯正されていないと、社会生活は送れないような仕組みになっているのだ。何度も言うように、それは仕組みが悪いのではない。それをしないと全体として動いて行けないのだ。

 それはそれとして、毎度言うように、私はどうしようもなく根本に執着している、いや、ほとんど惹きつけられていると言った方がいいぐらいだ。遊びとして在るということ、宙ぶらりんであるということに。そこには掴みかかるところもない、方向もない、際限もなく落ちかかっているのか、上昇しているのか、横へ吹っ飛ばされているのかも分からない。そういう場所に居て、激しい酔いを感じて気持ち悪くなる。しかし、長い時間そこに居ないと、逆におかしくなる。何となく落ち着かない、地面にしっかり足をくっつけていないような気がしてくる。